他人が作り上げたモノ。
自分は何を考えているのだろう。
そう思って過ごしているといろいろなことに気づく。
人は一日の中で多くの物事を考えている。
単に一つのことを考えるのに飽きてるだけかもしれない。
というより多くの情報に触れることで考えざるを得ないかもしれない。
実は多くの時間を他人の事を考えているんじゃないか
Twitter,instagramで投稿されたものを見たとき、その人のことを考える。
昨日は友人の誕生日であったし、元カノの誕生日であった。
"あ、そういえば今日って…”って考えているときには、彼らと過ごした記憶が甦ってくる。良いことも悪いことも含めて。他人について考えている。
ニュースが流れてきた。それは虐待されて死んだ児童のものだった。
その子のことについて考える。父親になりたい。父親になれば、虐待する気持ちが分かるのだろうか、分からないのだろうか。父親ではない自分にはそれすら分からない。
電車が好きだ。満員電車。箱に押し込められた人。一人一人にストーリーがあり、人生があることに心が興奮する。俺も凸凹な道を歩いたつもりだ。誰しもそうだろう。いろんな道があって感慨深くなる。
目の前の女のひとは、眼帯をしている。義眼なのか、それともDVにあっているのか。立っているカップルの距離感がおかしい。喧嘩した帰り道か。いや、付き合ってないのかもしれない。車掌はやけに早口だ。この赤ちゃんお母さん似かな。
そんなことを考えたりする。
そうやって一日中、他人のことについて考えている。
今の中山銀河個人としての考えは、そうやって他人について考えてきた結果なのかもしれない。
周りの人が
俺を作りあげた
のかもしれない
純粋に自分のことを考えている時は、ブログを書いている今なのかもしれない。
書きたいことをまとめるのは気が引ける。
こんな風にその時思いついたことを書けばいいや。